点子がゆく

映画や自転車や温泉の話をするブログです。

親の老いを受け入れられない

認知症と診断させた両親。

元気な頃は仕事で腹を立てると、家族の前で怒り、ものを投げていた父。

うまい具合に人には当てないように投げていた。

「ありがとう」とよく言っていた。

 

そんな父がアルツハイマー認知症と診断させた。

 

背骨の圧迫骨折や狭心症で入院するたびに個室を取り母や私が寝泊まりした。

 

 

自分が入院しことを忘れて、母の顔が見えないと母の名を呼んでいた。

 

数時間、用事で自宅に戻った母が病室に戻ると、すれ違いにタクシーで自宅に帰っていたこともあった。

 

それからは母や娘、孫、娘婿と誰かが必ず病室にいるようにした。

 

母や自宅が好きだった。

母と自宅にいるのが安心できたのだろう。

 

圧迫骨折や癌の進行のため、足取りがおぼつかなくなった。

たまにしか会わない孫の名前を忘れることもあった。

 

元気な頃は孫に

「何年生になった。」

と何度も聞いていた。

 

認知症では手がかからなかった父。

私にとって自宅に父がいることが安心できたので、体調が悪化するまで自宅で過ごしてもらった。

 

ソファから滑り落ちて動けなくなった父を息子と起こしに行ったこともあった。

 

歩いてほしいので居間からトイレまで、室内ウォーカーや家具で伝って歩くようにもした。

 

ソファから立ち上がりやすいようにソファの下に板を敷き、底上げした。

 

ヘルパーさんが朝、起こせないから毎朝起こしに行った。

 

そんな折、気丈な母の認知症がすすみ短期記憶が怪しくなり、父の服薬管理が難しくなった。

ヘルパーさんを使うことに抵抗がある母。

「お父さんのことは私ができる。」

そう言い張る母。

 

そんな母を受け入れられず、

よく怒りをぶちまけていた。

父のことに必死になればなるほど、

母への怒りが出てくる。

 

母に怒り、暴言を吐き、

自宅に戻り自己嫌悪。

 

疲れていた。

 

母は夜中のオムツ交換や濡れた衣類の着替えで夜、ゆっくり寝てなかった。

 

そんな母を思いやる余裕がなかった。

 

できるだけ父の世話をしたかった。もっともっと元気で長生きして欲しかった。

 

訪問医療での在宅は11ヶ月だった。

 

誤嚥性肺炎からか発熱が元で入院した父。

 

お盆前に退院し、3週間ぐらい家に居れた。

夏の終わりに再入院した。

 

入院しても短期記憶が危うい母に怒ることがあった。

 

怒ることが癖になったようだ。

 

葬儀所から焼き場に行く途中に自宅前を通ってほしいとお願いしたが、叶わなかった。

 

徘徊することもなく、円やかになった父。

 

母に対してまだうまく対処できず、時に爆発する私は

母の認知をうけいれきれないのだ。

 

せめてものと、クラシックの好きな母のため毎年2人でアルゲリッチのコンサートに行く。

 

f:id:tenkochaniine:20160619060851j:image今年は、グランシアター向かいの県立美術館のライトが

「きれい」

なんて、コンサートの休憩時間に2人で言っていた。

今年、87歳になる母。

毎年恒例のアルゲリッチ、来年も行きましょうね。